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全日本プロレス

2008/10/30(Thu)23:34

全日本プロレスは、1972年に設立されたプロレス団体。略して全日、全日本と呼ばれる。長らく「王道プロレス」を標榜としていた。現在は「パッケージプロレス」を看板として掲げている。旗揚げ戦は1972年10月22日東京の日大講堂で行われ、旗揚げ前夜祭が町田市体育館で行われている。

更に詳しい情報は→Ranking / Ranking

◆全日本プロレスの公式ウェブサイト
全日本プロレス オフィシャルサイト
◆他団体との交流

◇旗揚げ〜2002年まで
全日本プロレス旗揚げ当時、選手が足りない(当時日本プロレスはまだ健在)こともあり、国際プロレスの協力を仰いだ。その後も、そう頻繁にではないが、1970年代末まで国際プロレスとは交流があった。 ライバルである新日本プロレスとの交流はほとんど行われず、わずかに「プロレス夢のオールスター戦」(東京スポーツ主催)があるだけだった。その後、新日本から離れた長州力らジャパンプロレスと提携して交流を持つも、ジャパンプロレス崩壊後は独立姿勢を打ち出す。その後、坂口征二が新日本の社長となったことから交流が復活し、1990年2月の新日本プロレス東京ドーム大会への選手派遣、「日米レスリングサミット」(全日本、新日本、WWF:WWE)共催)などの交流があったものの、天龍らの離脱と猪木の新日本復帰により、その後は途絶えた。 プロレス多団体時代を迎え、団体交流が盛んになってからも、全日本では団体交流を行わず、「鎖国」と呼ばれる独立姿勢を保つ。しかし、1990年代も末になるとメンバーが固定していることによるマンネリ化が著しく、ついに「門戸開放」と呼ばれる他団体交流策を打ち出す。ただし、これはあくまで「他団体の選手を全日本に招請する」方針であって、UWFインターナショナル、みちのくプロレス、FMW以外の団体については、全日本のレスラーが他団体に上がることは殆ど無かった。これらの団体からでも、誰もが出場できる訳ではなく、馬場がメジャー団体として使えると判断した技術力の高い選手(垣原賢人、高山善廣、新崎人生、ハヤブサ、邪道・外道ら)だけが出場できた。また、全日本プロレスを脱退したレスラーの復帰は、裏切り者は許さないとする馬場の方針で行われなかった。 三沢が社長になってからはより積極的な団体交流を打ち出し、新日本の闘魂三銃士らとの対談がマスコミに掲載されるなどしたが、フロントとの対立であまり積極的な交流には至らず、三沢らが離脱した後は、選手の穴埋めを図るために、かつて全日本に在籍した天龍や旧WARの選手、武藤、蝶野正洋など新日本の選手、インディペンデントの選手が一気に参戦するようになった。

◇2003年以降
武藤が社長就任直後から交流していた橋本真也が旗揚げしたZERO-ONEとの全面戦争が勃発。橋本が奪った三冠ベルトの奪還をねらう全日勢などの熱い戦いが繰り広げられた。その後、三冠王者になった川田は、シングルマッチを経験した橋本、小川直也とタッグを結成してハッスルに参戦。2004年にはハッスルのリングで三冠ヘビー級選手権試合が行われた。グレート・ムタ、小島、カズ・ハヤシもスポット参戦した。「KAIENTAI-DOJO」のTAKAみちのくも定期的に参戦。外国人軍団「RO&D」を引っ張っていた時期から、試合前に前説を行い、以後、他の選手が前説を行う形が定着している。 武藤がTNAとの業務提携のため単身渡米し、お互いの選手派遣、若手選手の交換留学などを実現させている。また、武藤自身が世界中のプロレス団体に参戦するなどして、気に入った選手に直接オファーを出したり、選手から参戦を直訴されることも多くなっている。 全日本を離脱した三沢が社長として旗揚げしたプロレスリング・ノアとは、お互いの方針から交流がなく絶縁とも言われたが、2004年7月には、武藤と三沢のタッグマッチが行われ、試合後に小島が三沢にシングルマッチでの対戦を直訴して、三沢が4年ぶりに古巣に参戦した。その後、10月の武藤敬司デビュー20周年記念興行では、武藤と三沢がタッグを組んだ。武藤の新日本脱退、全日本の社長就任でこの両者の対戦の可能性は絶望的と考えられていたため、注目された。2005年、フリー宣言した川田がノアに参戦して、プロレスリング・ノア 東京ドーム大会で三沢とシングルマッチを行ったが敗れている。8月、10月には「WRESTLE-1 GP」が開催。全日本からムタ、諏訪間幸平、ノアからは三沢、小川良成、秋山準が参戦したが、両団体の選手が絡むことはなかった。2006年には、健介のデビュー20周年興行に全日本、ノアが協力。健介とのトークで出場した武藤と小島が、試合後に健介とタッグを結成した小橋建太とリング上で握手している。小島は小橋のことを今でも尊敬する人物の一人として挙げている。 2003年以降、新日本プロレスとの交流を打ち出すことになるが、これが現在の武藤体制の誘因となっている。 2005年には新日本プロレスの提案により、全日本の三冠ヘビー級王座と新日本のIWGPヘビー級王座それぞれのベルトを賭けた、史上初のWタイトルマッチが両国国技館で行われ、小島聡が天山広吉を破り四冠統一王者になったが、5月に天山に敗れてIWGPヘビー級王座から転落。翌年には新日本プロレスG1 CLIMAX 2006に、5年ぶり7度目の出場をしたが、決勝で天山に敗れて準優勝に終わった。その後、小島と天山は共闘することになり、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では、2003年1月4日以来の「天コジタッグ」を復活させて優勝を果たした。 2007年1月4日の新日本プロレス東京ドーム興行に全面協力することを発表。IWGPヘビー級王座に太陽ケアが挑戦、また三冠ヘビー級王座に新日本の永田が挑戦するタイトルマッチが行われた(双方王座防衛)。また武藤・蝶野 vs 小島・天山という団体の垣根を越えた新旧世代の対決があり、試合後、およそ8年ぶりのタッグを結成して勝利した武藤と蝶野が、闘魂三銃士の同胞であった橋本真也の生前の姿がスクリーンに映されトレードマークだった白い鉢巻を掲げるセレモニーがあった。 2008年1月4日の東京ドーム大会で、グレート・ムタが参戦。4月には武藤が中邑真輔に勝利してIWGPヘビー級王者になった。6月には欠場中の小島が、新日本のリングに参戦して天山を救出。「天コジタッグ」を復活する形になり、そのままG1に参戦を表明した。8月31日、全日本の興行で初めてIWGPヘビー級選手権試合を開催。王者である武藤がG1 CLIMAX2008優勝者の後藤洋央紀に勝利して防衛に成功。武藤、小島による古巣の参戦が、両団体の交流を深めている。
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