新日本プロレスは、日本のプロレス興行団体。略して新日本、新日とも呼ばれる。「KING of SPORTS」を標榜している。1972年1月、日本プロレス選手会を除名されたアントニオ猪木が設立。同年9月に設立されたジャイアント馬場率いる全日本プロレスと、男子プロレス界の二大老舗団体として君臨。「ストロングスタイル」と呼ばれるファイトスタイルを掲げている。2005年11月14日、ユークスが株式の過半数取得を発表、同社の子会社となる。
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◆新日本プロレスの公式ウェブサイト
新日本プロレスオフィシャルWEBサイト◆他団体との関係
◇全日本プロレス
全日本プロレス
アントニオ猪木、ジャイアント馬場の時代は両団体はライバル団体として長らく反目し合ってきた。両団体の初交流は1979年、東京スポーツ主催のプロレス夢のオールスター戦でBI砲が一夜限りの再結成を果たした。しかし両者の対立はその後も変わらず、1980年代前半には外国人選手の引き抜き合戦を行い、スタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン、ブルーザー・ブロディらが両団体を行き来した。坂口征二体制発足後の1990年、東京ドーム興行のメインイベンターを飾る予定であった当時のNWA世界ヘビー級王者・リック・フレアーが来日をキャンセル、興行の目玉を失った坂口は自らの足で全日本に赴き、選手を貸し出してくれるよう馬場に直談判。馬場も「坂口なら信頼できる」と快諾し、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章、2代目タイガーマスク、ハンセンの5選手がドーム興行に参戦した。その後の交流は馬場が死去するまでついになかったが、2000年に三沢光晴らが大量離脱した事によって全日本は崩壊の危機に晒される。これを打開すべく渕正信が単身で新日本に赴き、両団体の対抗戦が開戦。渕のほか、川田利明、太陽ケアらが参戦し、川田と佐々木健介の抗争を中心に対抗戦が展開する。2001年に武藤敬司が天龍を破り、新日本の選手として初めて三冠ヘビー級王座を獲得。しかし当時の新日本の格闘技路線に嫌悪感を抱いた武藤は小島聡、ケンドー・カシン、5人のフロントスタッフと共に2002年に全日本に移籍。これにより両団体の交流は凍結される。しかし蝶野正洋と武藤の関係は継続しており、2003年に小島が新日本に参戦してからは単発的ながら交流は行われている。2007年には新日本の親会社であるユークスが発売するゲームソフト、レッスルキングダムの名を冠した東京ドーム興行レッスルキングダム (プロレス興行)が行われ、全日本が全面協力した。2008年1月4日の新日本プロレス東京ドーム大会「レッスルキングダム2」にはグレート・ムタが参戦、4月27日は武藤が中邑を破って8年4ヶ月ぶりにIWGP王者になり、全日本プロレスに2度目の流出。また、小島聡が天山広吉との「テンコジ」タッグでG1タッグの出場を宣言するなど両団体の交流が注目される。
プロレスリング・ノア
2001年のZERO-ONE旗揚げ戦で永田裕志が橋本真也と組み、三沢&秋山準組と対戦した事が両団体の初交流である。これを契機に秋山と永田の間に友情が生まれ、同年10月8日の東京ドーム興行における「プロレス50周年スペシャルマッチ」で初タッグを結成し、武藤&馳浩組と対戦。2002年には獣神サンダー・ライガーが田中稔と共にノアマットに赴き、丸藤正道の「ノアのジュニアは最強です」という発言を契機にジュニアヘビー級の対抗戦が開戦する。同年5月の東京ドーム興行には蝶野対三沢戦が行われる。この試合以降、蝶野と三沢の関係が良好であった事からタイトルマッチも含めた本格的な交流が2004年7月10日のノア東京ドーム大会まで続く。その後交流は途切れるが、2005年5月の新日本東京ドーム大会に三沢光晴が参戦し約10ヶ月ぶりの交流が実現。そのバーターとして棚橋弘至が同年7月のノア東京ドーム大会に参加した。しかし2006年にノアはサイモン・ケリー猪木社長がテレビ朝日と日本テレビとの間で取り決められていたバーター契約を一方的に白紙化した(後にノア仲田龍がこの契約の存在を否定)とし、絶縁を宣言する。この煽りを受けて新日本の親会社であるユークスはノアに関する版権を借りられなくなり、「レッスルキングダム」に登場していたノアの選手は次回作の「レッスルキングダムII」は登場していない。その後、2008年8月26日に行われた、レッドシューズ海野レフェリー20周年記念興行(新日本プロレス主催)において、仲田、三沢両名がお祝いVTRで登場し、興行後の海野氏の会見で(NOAH側のスケジュールの都合で断念したが)NOAH勢の参戦も予定されていた(常連の青柳政司は出場している)事が明かされており、再び両団体の関係が復活する可能性も僅かながら出てきてはいる。2008年9月6日日本武道館大会の会場を裕次郎と内藤哲也のNO LIMITが視察。GHCジュニアタッグへの挑戦を表明し、2008年9月14日のノアのディファ有明大会のダークマッチに出場し勝利を収め、9月27日にタイトルに挑戦し敗北。2009年1月4日東京ドーム大会の呼びかけに対しオファーがあれば前向きに考えると三沢は答えてる。
ZERO1-MAX(旧・プロレスリングZERO-ONE)
旧・ZERO-ONE時代は橋本真也が独立を画策するも現場監督である長州と対立し頓挫・解雇を経て設立、という経緯もあって対立関係にあった。しかし2001年の旗揚げ戦では永田裕志が橋本のパートナーとして派遣され、これを機にノアとのパイプが生まれるなど4大団体交流時代の橋渡しとしての役割を果たした。断続的な交流はなかったものの同年には新日本で橋本・長州の遺恨決着戦が行われ、2002年にはアントニオ猪木の意向で橋本・小川組(OH砲)が東京ドームにおける30周年記念興業に参戦した。以降、ZERO-ONEは全日本、ノアとの交流にシフトしたために表立った交流は凍結。ZERO1 MAXと体制変更してからもしばらくは交流はなかったが、2005年に長州が現場監督として復帰し、翌2006年の東京ドーム大会から本格的に交流を開始、中西学・大森隆男、山本尚文・崔領二、金本浩二・田中将斗といった抗争が生まれている。またLOCK-UP、Premiumといった新日本の別ブランド興業にも多くの選手が参戦している。
みちのくプロレス
現存する団体では最も古くから交流が続いている団体で、旗揚げ直後からライガーとザ・グレート・サスケが良好な関係を築いている。テリー・ボーイ(現:MEN'Sテイオー)が学生プロレス出身であったために、学生プロレスを嫌う風潮にあった新日本の選手から疎外され袋叩きにされる事態があったが、後にプロレスに対する姿勢を目の当たりにし大谷晋二郎が報道陣の前で土下座して詫び、わだかまりは解けている。90年代にはサスケが初代ジュニア8冠王者に戴冠、スペル・デルフィンが第1回ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアで準優勝するなどジュニア黄金期の一翼を担った他、ヘビー級でもグレート・ムタ対白使戦といった試合が実現している。2002年に4代目タイガーマスクがみちのく所属ながら1年間新日本のシリーズに帯同し、2003年に円満移籍。その後も互いのビッグマッチには選手の派遣を度々行っている。
DRAGON GATE
闘龍門JAPAN時代にみちのくプロレス主催のSUPER J-CUP決勝でCIMAがライガーを相手に健闘し、その将来性を高く買われる。CRAZY-MAXが新日本に一度参戦するが、その後は団体の方針から長らく交流は行われていなかった。2006年にDRAGON GATEが開国宣言を行い、ライガーが参戦。2007年の東京ドーム興行にはDRAGON GATE離脱組であるVOODOO-MURDERSやミラノコレクションA.T.が参戦する関係からか参戦しなかったが、後日の後楽園ホール興行では望月成晃&ドン・フジイが邪道&外道とIJタッグ王座を賭けて対戦。同年にはライガーがフジイからオープン・ザ・ドリームゲート王座を奪取するが、DRAGON GATE・神戸ワールド記念ホール興行でCIMAに奪還されている。
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